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お米の起源とは何か、そして現在のお米の実態とは…

お米 グルメ
この記事は約4分で読めます。

日本の代表食といっても過言ではない「お米」。

今回は、そんなお米の起源について迫っていこうと思います。

Ⅰ.お米が生まれるまでの日本

狩り人の集団だった?

何万年も前の日本では大型動物を狩り、それを食料としていました。

大型動物を主食としていたので、どこかに定住することなく、東から西、西から東など転々として生きていました。

そして縄文時代に入る1万年ほど前、転機が訪れます。地球温暖化です。

これにより大型動物が姿を消すようになり、木の実をつける広葉樹が育ち、その木の実を食べる小型動物が増え、簡単には狩猟ができなくなってしまったのです。

そこで狩りに工夫を生むための弓矢、木の実のあく抜きをするための土器などが生まれました。

この発明によりただ食べるだけでなく、保存も利くようになったのです。

縄文時代に入り、食料の変化とともに調理道具が生まれ、日本の食は豊かになっていきました。

Ⅱ.それではお米はいつ、どこで生まれたのか

①お米の起源は日本ではない!?

日本の代表食のお米ですが、実は日本生まれではありません!

紀元前5000年頃に、中国の浙江省河姆渡(かぼと)遺跡で稲穂の文様を描いた黒陶が見つかっています

日本では2500年ほど前の縄文時代に朝鮮半島を経由して伝わってきたとされています。

また、一説には中国南部から沖縄へ上陸したのではということも考えられているそうです。

このように諸説ありますが、大陸から東シナ海を渡ってやってきたことには間違いなさそうです。

また、日本でよく食べられているジャポニカ種の祖先にあたるアジアイネは中国の長江、中流辺りが発祥とされています。

では、なぜここまでお米が普及したのか

日本にお米がやってきて数百年後、福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡などから、炭化米や水田跡石包丁といった道具、用水路田下駄など日本の水出稲という、稲作の証拠となるものが見つかっています。
しかも上記の遺跡は同時代の稲作を行った痕跡のない遺跡とは孤立した状態で発見され、大陸で稲作を行っていた集団が稲作技術とともに日本に渡来し、整備された水稲耕作を行っていたとみられます。

弥生時代になると、静岡県登呂遺跡で田下駄、くわすき、農耕具、堅杵たてぎねなどの農具が発見され、稲作技術は急速に日本列島を東へ伝播していきます。

北九州〜東海地方にかけて同じような土器文化が見られていますので、200〜300年くらいで急速に稲作技術が普及していったことが推測されます。

弥生時代の中期には、青森県南津軽郡の垂柳遺跡でも水田跡が発見されたので、北海道を除く日本列島の広範囲で水田耕作が行われていたと考えられます。

このことから、弥生時代は今までの主食の堅果類からお米に代わる転換期だったと考えられています。

米を煮て調理していて、今の「お粥」のようなものから、今のようなお米を蒸して調理して食べる、「強飯(こわめし、こわいい)」に変化していきました。

こうしてお米の普及と伝播によって、養える人口が増え、日本人の栄養状態も良くなり、体格も良くなりました。

そして奈良時代以降の日本はお米が主食となっていきました。

Ⅲ.今現在のお米

今当たり前に口にするお米ですが、その種類数はもっとも流通しているコシヒカリをはじめ、研究や品種改良もかさみ、国に品種登録されているもので500種類、そのうち主食になるごはん用として作られているものだけでも271種類もの品種があります。

さまざまな農家や専門機関が日々、美味しいお米を研究していますので、ぜひ自分の好みのお米を見つけてみてはいかがでしょうか。

次回はパンの起源に迫っていこうと思います。

参考

お米の歴史のはじまり | 日本お米協会 |「選ばれるお米」をつくる農家コミュニティメディア (rice-assoc.jp)

お米づくりの起源・歴史 | お米とごはんの基礎知識 (okomehp.net)

お米の歴史について知りたい!日本でお米が主食になったのはなぜ? | ごはん彩々(全米販) (gohansaisai.com)

上記を参考にこちらの記事は作られています。

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